真実にたどり着くと真実に近づくは違う
これまで米国大統領選挙や新型コロナウイルスなどなどについて語ってきましたが、基本的に言いたいことは、妄信していては真実には近づけないということです。
もちろん真実に興味無く、自分のイデオロギーに合致していればよいと考えるのであれば、メインストリームメディアで事足りるでしょう。
はっきり言って時間の無駄とも思える安倍総理時代のモリカケ騒動、桜騒動、火の無い所に煙を立てているのは明白なのに、マスコミは連日なかなかの大騒ぎ、おそらく確信犯ではないかとは思いますが、もしそうでないならよほど取材力が欠如しているとしか思えない事象です。
そしてあれだけ大騒ぎしておいて、何も出てこないことに対し、謝罪の一つも無いという無責任ぶり、そんな報道を信用していては知るべきことを知ることは難しいでしょう。
当然、それに乗っかったコメンテーターやら野党議員も同様、信じてよい存在とは到底思えません。
言っておきますが、おそらく彼らは最初から何も無いことを知っていてやっていたのです。
もし関連でホコリが出たらラッキーといったところでしょうか。
一般庶民の私ですら、モリカケ騒動の初期の段階で何も問題ないと分かっていました。これは安倍総理を信じていたからではありません。
いくつかの情報源から要所をつかめば、誰でも分かることでした。
それなのに国会議員やら有識者、知識人の範疇にある人がその程度の情報を得られないとはちょっと考えにくいでしょう。
もしそうなら、相当偏った情報のみに傾倒している訳で、そもそもその人から出る情報は偏っているのです。
もちろん、私の言うことが全て正しいなどと言う気は毛頭ありません。
なにしろ、真実にたどり着くのは基本的に当事者以外不可能、権力をもって捜査する警察や検察ですらも、裁判所ですらも、真実にたどり着けないことはあるのです。
まあ検察が真実にたどり着こうとしているかは、個人的には懐疑的な面も少なくないですが。
大切なのは事実をつまびらかにしているかどうか、でしょう。
報道は取材を通じて、検察ならば警察の行った捜査資料を通じて、ということですが、原則として全部の情報を開示すべきでしょう。
もしそこに、自分達にとって都合の悪い部分は隠す、ということがわずかでもあれば、報道から得る情報も、裁判における証拠も、受け取る側にかなりの錯誤をもたらしかねません。
ここで言いたいのは、より多角的な情報を得て、これがもっともであると自分自身が判断することに尽きる、ということです。
判断基準としては、言っていることに理屈が通っていないとか、明らかに結論ありきで理論構成しているとか、明確な理由付けなくレッテルを貼るとか、私の場合はそういった意見を除外していく感じですね。
そうすることによって、自分の中で判断できるようになります。
判断できてしまえば、この情報は価値があるのか?とか、この情報は疑わしいなどの考えをもつことができます。
それを繰り返すことによって、点と点がつながって線になり、線になればこれが真実により近いと感じることができます。
せっかく情報に接するのですから、出来るだけ真実により近い情報を得たいものです。